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zoom RSS フォルモサやネロが楽しむコロッセオ 呉昭新先生の歌について

<<   作成日時 : 2014/06/17 06:35   >>

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 台湾の句友、呉昭新先生から短歌を拝領した。
 私も短歌を詠んでいるので、呉昭新先生は歌友でもある。
 また、漢語、台語は、俳句と短歌と詩を区別することに、半信半疑でもある、と私は思っている。
 つまり、俳句と短歌と詩の違いがあるらしきことを一応は区別して句を作り、歌を詠み、詩を作ってはいるが、それらを区別する必要があるのか、と心の底では疑念を抱いている、そこで、私にとっては、呉昭新先生は詩友でもある。

 さて、呉昭新先生の歌。
 
  フォルモサのネロが楽しむコロッセオ
           闘士と猛獣生徒と警察

 台語では

  台灣島 暴君享樂 鬥技場
        鬥士佮猛獸 學生佮警察

 華語(普通話)では

  台灣島 暴君享樂 鬥技場
        鬥士與猛獸 學生與警察

 字面では佮と與が違うだけ。しかし、他は発音が違うようだ。
 スペイン語とイタリア語どころではなく、スペイン語・イタリア語とフランス語ほどの違いがありそうだ。
 中国はヨーロッパほどの国土があり、そこに60ほどの民族が暮らしている。
 台語と華語に大きな違いがあったとしても不思議ではない。

 さて、呉昭新先生の歌。短歌ではあるのだろう。
 五七五八八。ただし、「闘士と猛獣生徒と警察」 

  とーしともうじゅう せーととけいさつ

 は、八八であっても、限りなく七七に近い。
 だから、形式上は短歌だ。

 しかし、その歌の内容はどうなのだろう。
 闘士と猛獣 生徒と警察 が対句。
 対句は、詩的効果を高めはするが、内容に着目すれば、そのひとつを省略できる場合が少なくない。

 闘士と猛獣 生徒と警察 という対句は、闘士=生徒 猛獣=警察 であると言っているのだから、闘士と猛獣 は省略できる。それに、
 ローマのコロッセオでは剣闘士と猛獣が戦ったのだから、コロッセオといえば、闘士と猛獣 は省略できる。

 そこで、

  フォルモサのネロが楽しむコロッセオ
                  生徒と警察

 「フォルモサ」は台湾の別称。ネロは暴君。そして、呉昭新先生の歌の英訳は、

  Formosa
  Nero enjoys at the coliseum Taipei
  fighters and wild beasts        闘士と猛獣
  students and polices          生徒と警察
  sunflowers and mafias          ヒマワリとマフィア

 英訳は短歌の五七五七七の五句に対し五行だが、「ヒマワリとマフィア」の一句がさらに加わって、対仗が鼎仗になった。
 しかし、鼎仗三句を一句にすれば、

  Formosa
  Nero enjoys at the coliseum Taipei
  students and polices

 つまり、三行になり、Haikuになる。
 そこで、呉昭新先生の短歌は、短歌でもあり俳句でもあるように思えてくる。

 しかし、以上に見てきたような分析を経ずとも、呉昭新先生の短歌は、俳句なのだ。
 俳句であり、川柳のようでもある俳句なのだ。
 短歌では、作者の心情吐露めいた詠嘆が籠る場合が多いが、呉昭新先生の言葉は客観的な敍法に徹しており、

  フォルモサのネロが楽しむコロッセオ 生徒と警察

 は、新聞の、見出しと小見出しを並べたようでもある。
 その敍法は、とても俳句的だ。

 さて、呉昭新先生の短歌が俳句的だとすれば、そこから何を学ばなければならないのか。
 私が思うのは、呉昭新先生の短歌が俳句的かどうかを詮議することに、どれだけ意味があるか、ということだ。
 呉昭新先生の短歌が俳句的であるかどうか、短歌であるのか俳句的であるか、ということは実は重要ではなく、重要なのは呉昭新先生の作品が、味読するに堪えうるかどうか、だ。

 私はとても面白いと思う。味読するに堪える。
 台湾をフォルモサとラテン系言語の響きのある言葉で示し、ラテン系言語の響きのなかで暴君ネロが登場。
 しかし、フォルモサは台湾であるから、台湾にネロがいる、と呉昭新先生は言っている。
 つまり短歌の上句五七五の句意は台湾にネロがいる、ということ。台湾にコロッセオがある、といこと。
 そして下句七七は対句。古代ローマと現代の台湾の対。
 呉昭新先生の歌は、ここかと思えばまたあちらで、殴りあい叩きあう学生と警察を活写しており、その場景が眼に浮かぶ。

 そして、思う。
 呉昭新先生の作品が短歌でありつつ俳句であり川柳であることで、詩であるとすれば、
 われわれ日本の詩人は、なぜ短歌と俳句と川柳と詩を区別することに、やっきになるのか。

 俳人と歌人が対談をすれば俳句と短歌どこが同じか、ということが話題になることが少なく、どこが違うかがテーマとなる。
 俳人と歌人が詩人と鼎談をすれば、俳句・短歌と現代詩は、どう交流すべきか、ということが話題になる。
 つまり、住み分けがむずかしいところでは、垣根をめぐらせて住み分けにやっきになり、
 住み分けがはっきりしているところでは、どうすれば垣根を取っ払って更地にできるかを論じて、やはり住み分けざるを得ない、ということになる。

 なぜなのだろう。
 日本の詩文化はとても変わっているように思える。

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