「絶望の壁/到着しつつ出発しつつ/顔のない鳩ら」について 「絶望の壁/到着しつつ出発しつつ/顔のない鳩ら」について Man1960さま 拙文にコメントしていただきありがとうございます。 きちんとした日本語で書いていただいておりますが、Man1960さんは、欧米語を母語とされている方なのでしょうか。 そうであれば、日本の俳句の現状にユニバーサルな視点から、疑問をいだかれているのだと推… トラックバック:0 コメント:0 2012年10月07日 続きを読むread more
詞の強みと俳句の強み 同工異曲「櫻」は、詞という2000を超える詩体を持つ定型の海を、もっとも簡便な形で、いったんは泳いでみようというものに他ならないが、泳げば泳ぐほどに詞は、定型でありながら自由詩である、そういう詩のジャンルだという実感がますます深まる。 これを思うと、俳句における定型は、いかにも貧弱。その句体に殉じることはできない。 しかし… トラックバック:0 コメント:0 2012年09月23日 続きを読むread more
詩から詞 発句→俳句の流れ未だし 詞は詩余とも呼ばれている。 「余」を余(あまり)と読み、詩の余りもののようにいう漢詩人もいるが、私は余(のち)と読んでいる。 詩の余りもののようにいう立場の多くは、絶句・律詩が定型詩として完成度が高い、と信じており、その定型性の外で詠まれる詞に重きはおかない。 そして、そういう人らが、詞を作ることはあまりない。 し… トラックバック:0 コメント:2 2012年09月22日 続きを読むread more
海外詠や唇寒し「秋」を季語に 海外で俳句で詠むには季語をどうしたものかという話をよく聞く。 いかなる場合も季語を使わねばならぬと思っているからそのように悩むのだが、季語というものが、日本の国内だけでしか通用しない、ということに気が付いていれば、海外詠をもっと楽しめると思う。 鮟鱇喜海暝,大抵昏昏睡。點火口前燈,奇魚鱗聚戲。 … トラックバック:0 コメント:0 2012年09月10日 続きを読むread more
発句だといえばよいのだ定型俳句 子規が、俳諧の「発句」を「俳句」と呼ぶことにしたことは、江戸俳諧の流れを汲む「月並」と訣別し、明確な一線を引こうとした決意の表れと見てよいだろう。 そこには芭蕉が先鞭を付けた「発句」の一個の作品としての独立性をさらに明確にしようという意志も働いており、誰もが、子規の慧眼に感服する。 しかし、もしそうであれば、「俳句」はもはや「… トラックバック:0 コメント:0 2012年09月02日 続きを読むread more
咳をしても一人のはずが春が来る 尾崎放哉の「咳をしても一人」の「咳」が季語であるかどうかで、異なる意見があることをたまたまネットで知った。 季語であるとすれば、どう読めばいいのか、どのように評価し、何を想い浮かべればよいのか、 季語でないとすれば、どう読めばいいのか、どのように評価し、何を想い浮かべればよいのか、 それが見えてこない。 「咳をして… トラックバック:0 コメント:0 2012年08月14日 続きを読むread more
正体に定型を見て思ひ慄然 きょうは、漢詩結社「葛飾吟社」の例会。日本で詩だけでなく、詞曲や漢俳も作っている結社は、わが「葛飾吟社」以外にはないといっても過言ではないだろう。 きょうは、私が講師を勤めて詞「少年游」をみんなで勉強した。 ポイントは詞は、日本の俳句と違って、定型性を保ちつつも、その詩体に作者の創意工夫を反映し、多くの新しい詩体を生みだしてい… トラックバック:0 コメント:0 2012年08月11日 続きを読むread more
着想の乏しき限りwuqiren(五七人:ウチの人) 俳句では発想が大事だ。 季語と五七五にこだわると、発想がおろそかになる。 季語と五七五が世間の相場だと思いこんでいるので、世間相場の発想しかできない、ということが起こる。 トラックバック:0 コメント:0 2012年08月10日 続きを読むread more
株守り兎待ちます残暑です 季語を用い五七五に作っても、こんなものは俳句じゃない、といわれることがよくある。 私の漢語俳句にしても、季語を用い五七五に読み下してみても、こんなものは俳句じゃない、と腐す俳人諸兄姉少なからずであることは想像に難くない。 季語を用い五七五に作っても、こんなものは俳句じゃない、という嘲笑が蔓延する。 とすれば、季語も五七五も… トラックバック:0 コメント:0 2012年08月08日 続きを読むread more
恋愛や金の袋に新時代 俳句は詩であるが、俳句らしい詩を作るには、詩に展開できるような句を詠むのは問題がありそうだ。 詩に展開できるような句を詠むのであれば、最初から詩を詠めばよい。 もちろん、短い詩を、俳句に負けないくらい短く詠んで何が悪いか、ということがあり、俳句よりも短く詠んで何が悪いか、ということがある。 しかし、真に俳句らしい俳句を詠む… トラックバック:0 コメント:0 2012年07月30日 続きを読むread more
托鉢や過客は横波のごとし 昨日に引き続き句題は「托鉢」。 二五令・托 鉢 2012.07.15 -1540 托鉢,過客若横波。 ○平,●仄●○平(中華新韵二波平仄両用の押韻) 托鉢, 過客は 横波のごとし。 二五令の場合、押韻箇所としては考えられるのは上記三か所。 たかが七字の押韻… トラックバック:0 コメント:0 2012年07月15日 続きを読むread more
夏の季語/かとロンドン/泡を吹く 日本の俳人の多くは、ビールを清涼飲料だと思っているのに違いない。ビールは夏の季語。 日本人の多くは、とりわけ夏にビールを多く飲む。しかし、それは、ビールを冷やして飲むからだ。 一方、本場ではどうか。ロンドンのパブでは、ビールがいちばんうまい温度で飲む。 ロンドンのビールが温いのはそのため。 ロンドンのパブの常連は、… トラックバック:0 コメント:0 2012年07月01日 続きを読むread more
唐土の俳諧問はん四字成語 季語によって季節感を共有したいという思いは私にはない。 漢語で俳句を詠む限りは、たとえ季節の言葉を用いたとしても、それが季語の役割を果たせるはずはない。 とすれば、季語が季語として認識されるのは、仮名まじり文による作句の場合だけだ。 日本の俳人がなぜ季語を用いるかをめぐっては、いろいろと説かれているが、本音を言えば、と… トラックバック:0 コメント:0 2012年06月20日 続きを読むread more
山水や蠧魚が句を読み眠りをる 中国の詩友金中博士から、論文の和訳のチェックを頼まれた。 論文は、日本の短歌と俳句の漢訳に関するものだが、漢語俳句、漢語短歌を作るうえでとても役立つ。 金中理論に随えば、漢語俳句は、一語+一句に作るのがよい。 二五令・蠧 魚 2012.06.15 -1317 蠧魚,知悉山水娯。 … トラックバック:0 コメント:2 2012年06月15日 続きを読むread more
左遷されて苦海に愛する自然かな 漢語で俳句を作る上では、詩友金中博士の『一詞和一句(一語+一句)』論がいちばん頼りになる。 二七令・苦海無邊 2012.06.08 -1273 左遷,苦海無邊愛自然。 ●平,●●○平●●平(中華新韵八寒平声の押韻) 左遷, 苦海無邊に 自然を愛す。 これは一詞和… トラックバック:0 コメント:0 2012年06月08日 続きを読むread more
冬海泛,棺柩一千萬。 タイトルは昨夜の拙句「冬の海や浮かぶ柩が一千万」を漢語俳句に翻訳したもの。 http://shiciankou.at.webry.info/201205/article_56.html 浮かぶ→泛(う)かぶにすれば、漢語俳句では押韻できることにきょう気が付いた。 三五令・冬海浮棺柩 2012… トラックバック:0 コメント:0 2012年05月16日 続きを読むread more
秋深き田に詠む秋田の俳句かな その四 秋田国際俳句・川柳・短歌ネットワークの「日露俳句コンテスト」に応募してみようと句を考えてみた。 冬の海や浮かぶ柩が一千万 獅子鮟鱇 一千万という数字から、日本の俳句人口が一千万だといわれていることを思う必要はないのだが、この句、字余り。一字の字余りは定型のうちだと許容されるとは思うが、五七五 死の海や浮… トラックバック:0 コメント:0 2012年05月15日 続きを読むread more
秋深き田に詠む秋田の俳句かな その三 すでに書いたことだが、私は、秋田国際俳句・川柳・短歌ネットワークの「日露俳句コンテスト」が盛会であることを切に望んでいる。 http://shiciankou.at.webry.info/201205/article_29.html 秋田は日本海を挟んでロシアと接しており、極東ロシアの人々との文化交流を進めるうえで… トラックバック:1 コメント:0 2012年05月13日 続きを読むread more
秋深き田に詠む秋田の俳句かな その二 昨夜も書いたが、秋田国際俳句・川柳・短歌ネットワークの「日露俳句コンテスト」の下記募集要項はひどい出来だ。 俳句の形式:俳句は母語で書く。 母語が日本語の場合、「海」をテーマにした有季定型による俳句。―以下、略― 母語がロシア語の場合、「海」をテーマにした短い3行詩であれば形式は自由(季語を含む必要なし)。 … トラックバック:1 コメント:0 2012年05月12日 続きを読むread more
秋深き田に詠む秋田の俳句かな 『秋田国際俳句・川柳・短歌ネットワーク』なる組織があり、「日露俳句コンテスト」というイベントがあることを知った。 私は、俳句の国際交流の成功を切に願っており、同イベントが盛会であることを切に願う。 しかしながら、その募集要項を読んで、日本の俳句は暮秋にあり、やがて冬を迎えざるをえないと思わざるを得ない。というより、もはや冬… トラックバック:2 コメント:0 2012年05月12日 続きを読むread more
俳句の再定義につき スウェーデン大使館で「スウェーデン文学 -日本からの視点」というテーマで、スウェーデンの俳句と文学についての講演会が開催され、世界俳句協会の夏石番矢、鎌倉佐弓、松岡秀明、そねだ ゆ、梅澤鳳舞氏とともに参加した。 夏石番矢氏の記事: http://banyahaiku.at.webry.info/201205/articl… トラックバック:2 コメント:0 2012年05月10日 続きを読むread more
生まれたら老いや病いで死んでゆく 俳句は省略の詩であり、言葉の無駄を削りに削って詠むものだ、と説かれたことがある。 言葉の無駄を削る―その結果、十七音を割り込むことになっても、やはり短くすべきだとすれば、 生まれたら老いや病いで死んでゆく は、仮名を全部削ればよい。 生老病死 無駄を削ることで、十七音→和語七音漢語四音四文字にな… トラックバック:0 コメント:0 2012年03月21日 続きを読むread more
花の底でけふも啼きをる春蚯蚓 ほか 花の底でけふも啼きをる春蚯蚓 句を詠むにこらへ切れない花に酒 窮鳥を拒まず信ぜず兜の緒 酒錢盡きて紙錢を請ふや夢枕 私の和語俳句の多くは、漢語俳句をまず詠んでからその一部を削って和語に作っているが、時には和語がオリジナルになる場合もある。 俳句は世界最短の詩、削りに削って詠むものだといっ… トラックバック:0 コメント:0 2012年03月16日 続きを読むread more
その虫は□■(各各)しかじか無視さるる 川柳をやっている旧友を世界俳句へ誘ったら、俳句の壁の厚さを感じて来ているのでしばらく時間をくれ、という返事だった。 前向きに検討してくれることがありがたい。 それにしても、「俳句の壁の厚さ」。私もまた、日本の「俳句の壁の厚さ」を感じている。 日本の俳句には、俳句らしくない俳句は俳句として認めない、という権威主義を、金城… トラックバック:0 コメント:0 2012年02月27日 続きを読むread more
桂冠にまさる鶏冠(とさか)の型をとる 俳人の定型遵守は、俳譽と無縁ではないと思う。 鷄群の孤鶴であるよりは、鶏冠の立派な雄鶏でありたいのだ。 漢俳・見利忘義 2012.02.16 -0470 定型如錦衣。俳人見利追浮譽,忘義季題啼。 ●○○●平。○○●●○○仄,●●○○平(中華新韵十二齊平仄両用の押韻) 定型は錦衣… トラックバック:0 コメント:0 2012年02月16日 続きを読むread more
鷄群の孤鶴に桂冠やらず老ゆ 漢俳・鷄群孤鶴 2012.02.10 -0396 翁嫗聚騷壇。孤鶴鷄群無桂冠,吟客有塵縁。 ○●●○平。○●○○○●平,○●●○平。 翁嫗(おきなおうな)騷壇に聚(つど)ふ。 孤鶴 鷄群にありて桂冠なく, 吟客 (鷄群にありて)塵縁あり。 この作は、鶴と客が同じ韵… トラックバック:0 コメント:0 2012年02月10日 続きを読むread more
どう朗読するかを無視して作る五七五 スロベニア大使館では、東京外語大学日本語科の学生と五七調をめぐって話をする機会があった。 五七調も七五調も、日本語の美を表現する黄金律ではない、というのが私の意見。 なぜなら、七を三四あるは四三に句読せずに、きっちり七として朗読したら、平板になって美しくない。 東京外語大学日本語科の学生、ほー、といってとても興味を示し… トラックバック:0 コメント:0 2012年02月10日 続きを読むread more
漢俳 多作のための一作法 詩の上達の方法として漢詩では「三多(看多、作多、商量多)」が説かれている。 三多は、多く読み、多く作り、多く工夫すること。 そして、俳句には「多作多捨」がある。 しかし、どのような作り方をすれば「多作」できるのか。 俳句のことはわからないが、漢俳の場合は、多作をシステマッティックに可能にする、そういう効率的な作り方… トラックバック:0 コメント:0 2012年02月08日 続きを読むread more
世の末に季語も季(すえ)なる氷点下 季語を用いようが四字成語を用いようが独創性はあまり期待できないだろう。 しかし、四字成語は、詞贅省略の窮めとも言え、俳句は省略の文学であるというのなら、季語を用いるより四字成語を用いる方が、含蓄のある句を作れるだろう。とりわけ人事において然り。 山川草木に含蓄を期待するのでなければ、季語に冬深まれりと思ふべし。 トラックバック:0 コメント:0 2012年01月31日 続きを読むread more
朝顔につるべ取らるる廃家かな 朝顔につるべ取られてもらい水 千代女 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 子規 この二句を較べてみると、子規の句は「写生」句であり、千代女の句はそうでないことがわかる。 「朝顔につるべ取られて」を「写生」で詠めば、 朝顔につるべ取らるる廃家かな あたりであるだろう。 そこで、「もらい水」が掲句を非「写… トラックバック:0 コメント:0 2011年12月25日 続きを読むread more